延岡市長選候補者比較

先月2017年9月「延岡の明日を考える会」において、来年1月の延岡市長選挙立候補予定者による政策発表が行われた。
二人がそれぞれ発表した内容は、9月20日宮日新聞に掲載された。

9月20日宮日新聞記事「2018延岡市長選」

今回、この機会に、僭越ながら、隣の市という身近な存在である延岡市の、どちらかが市長となるお二人の、非常に気になる政策について評価(採点)してみた。
尚、評価(採点)の物差しとした基準は以下の通りである。
1.狙いの的確性
2.内容の具体性
3.実現可能性
4.創造性
5.整合性・合理性

「延岡市長選候補者政策評価」

ご覧頂いた通り、圧倒的な差になった。
例えるなら、「大関と幕下の差」くらいであろうか。
私は、この差は、大袈裟でも、偶然でも、不公平でもないと思っている。
むしろ、二人が持っている潜在力、歩んできた道、バックボーン、志、そして、今の実力からして、当然の結果だと感じる。

なぜこうも大きな差となって現れたのか、少しだけ解説してみる。
まず、やはり、歩んできた道の違いが大きい。読谷山氏は、自治省(現総務省)入省後、徳島県、青森県、新潟県、沖縄県の各地方自治体へ出向し、その後、愛媛県総務部長、内閣府、岡山副市長を経て延岡へ帰って来て、一経営者としてここまで歩んできた。
その経験は、実に豊富で、様々な立場から政治経済、教育、市民生活を見てきた。
それに対して、永山氏は一県職員としての経歴以外は何もない。
これでは全く勝負にならない。
片や、読谷山氏は、空高く舞い上がって上空から俯瞰し、一方、永山氏は、地面の一ヶ所から二次元的に眺めてきた訳である。
同じ所を見ても、二人に見える風景は全く違う様相を呈する。

もうひとつ決定的な差が、民間での経験である。
読谷山氏は、内閣府退官後5年余り、一経営者として超えなければならないあらゆる苦難を受け止めてきた。経験した者だけが分かる、一経営者としての苦難を知っている。
通常エリートと言われる人達は、ほぼ100%その種の苦難を知らない。
読谷山氏は、エリートでありながら、その種の苦難を知っている稀有な人物である。
一方、永山氏は、当然ながら、一経営者としての苦難を知らない。いや、庶民の苦難はほぼ知らない。
永年、県の職員だけやってきた者は、一経営者としての、あるいは、庶民の苦難など知りようがないのだ。

この決定的なふたつの違いは、二人の政策に100%反映している。
私が、「大関と幕下の差」という意味は、そういう意味である。

率直に言うと、もし仮に永山氏が延岡市長になるなら、残念ながら、延岡市民はほとんど何も期待できないだろう。
私の評価表を、二人の名前を隠して、内容だけしっかり見て欲しい。
左列の内容を見て、何か気がつかないだろうか?
左列の内容は、人口1~2万人程度の町村の首長が掲げる政策と、余り変わりはないのだ。
いや、はっきり言ってそれ以下だ。
役人目線の、どうしようもない発想の陳腐さだ。
言葉は悪いが、20世紀の天然記念物的政策である。
どちらが市長になるべきかは、歴然としている。
ここでは、これ以上の講評はしないこととする。政策内容の突っ込んだ評価には情報が少な過ぎて、厳密さを欠くからだ。

ひとこと大声で付け加えたいのは、次のことである。

私は、遊び気分で、てきとうに採点した訳ではない。
地方自治体の首長が変わるということは、会社の社長が変わるより、もっと大きく市民生活に変化をもたらす。1期(4年)だけでも相当な違いをもたらすだろう。

それだけ大事な選択となるので、延岡市民には是非正しい選択をして欲しい。
つまり、言い換えれば、所属している組織や地縁血縁などの人的コネクションで選択を決定することなく、どちらを選んだ方が延岡をより良くしてくれるか、延岡市民を幸せにしてくれるか、純粋にそこを考えて選んで欲しい。

どちらを選択するかによって、延岡の未来の可能性は、間違いなく数倍違ってくる。

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