延岡市長選挙第3話「河野知事は、一方の選択を促す広報マンか?」

日本のひなた族第6話で、河野知事の公務中の後援会用務に疑問を示したが、この問題は、河野知事が、来る延岡市長選挙で永山氏の選択を促す広報マン化するに至り、倫理観を欠いた低次元の縄張り合戦の性質を帯びてしまった。

というのは、いつからか知らないが、現在延岡市では、河野知事と永山氏が並んだポスターが大量にあちこちに貼られている。

   

建前としては、「県北の未来を語る集い」の弁士として、河野知事と前県総合政策部長の永山氏が講演するという趣旨のイベントであるが、このポスターを見た人は、100人中100人河野知事の「延岡市長選挙では、永山氏への投票をお願いします。」というメッセージだと受け止めるだろう。
そのような誤解を生む可能性があるというレベルではなく、それ以外の合理的解釈など見つからない。

これは例えば、AとBという延岡市の焼酎ブランドがあった時、河野知事が知事というネームバリューを利用して「私は、BよりAを勧めます。皆さんも、Aをどうぞ!」と言いつつ宣伝していることと同じである。
もし、河野知事が宮崎河野党という政党の党首で、永山氏が宮崎河野党所属の候補予定者であれば理解できないではない。
あるいは、河野知事が著名な芸能人で、プライベートな付き合いのある友人が選挙に立候補を表明し、友情から応援を買って出たのであれば理解できないではない。
しかし、実際はそうではない。
延岡市という自治体の自治の選択に対して、県知事という権力者が越権して影響を与えることになる。
本来的に、延岡市の自治の選択は、延岡市民に委ねるべきだ。
プライベートな付き合いのある延岡市民以外の候補予定者の友人が、私人として、友人である候補予定者を応援する分には構わない。
しかし、河野知事は私人ではなく公人である。
公人は、公人としての立場で影響力を行使する場合、公益という観点から離れてはならず、個人との関わりにおいて、絶対的に中立でなければならない。
したがって、河野知事の広報マンとしての影響力の行使は、知事としての地位と権力の濫用である。

では、なぜ河野知事は、そのような濫用を犯すのだろうか?
考えられる可能性は、高いものから順に次の3つである。

1.自分の政権基盤の強化
永山氏という元部下が延岡市長になれば、延岡市という独立した自治体であっても、自分のyes manが市長だから、たやすく支配関係を築ける。
延岡市への影響力が強まれば、延岡を支える旭化成、清本鉄工といった企業も味方につけやすく、自分の支持基盤は磐石になる。

2.3選出馬の布石
多少1と似てはいるが、主目的が次期知事選挙の点が異なる。
河野知事の知事としての活動は、かなり友好親善大使の割合が高い。
ほぼ毎日のように、ニュースに登場し、各団体の代表や高い個人業績を達成した県民を祝福する様子が映し出される。
これによって、知名度が圧倒的に高くなるので、次期知事選挙では、県政がどう変わったかという本来の業績を問われることなく、圧倒的に高い知名度だけで勝利を手中にできる。
そのメリットが大きいので、ことあるごとに自分の顔を売ろうとしている。

3.誰かに動かされている
延岡市民の背後に、延岡を支配したい人物(団体)がいて、そのためには永山氏が市長になることが都合がよいと考えており、その人物(団体)は、県政にも一定の影響力を持っている関係から、河野知事に永山氏支援を働きかけた。
河野知事は、その人物(団体)を敵にまわしたくないので、支援しているというデモンストレーションを見せ、give and takeの関係を維持している。

実際は、3つの中のいずれかというより、3つの複合であると考えられる。
どちらにしろ不健全であることは間違いない。

この手の話は珍しくないが、いつも感じるのは、「勝てば官軍」という考えに支配され、その結果として、延岡市政の独立性、延岡市民の公益、公明正大という無形の価値観などが蔑ろにされ、市民不在の低次元な縄張り合戦に拍車がかかるのではないかという懸念である。

国政しかりだが、歴史上、現代ほどリーダーの質が低下し、リーダーの口から出てくる言葉は空々しい美辞麗句ばかりで、中身がなく、行動が伴わず、人々の信頼を裏切り続け、信用に値しない時代はないだろう。
それに輪をかけて、そのことにすら気がついていない思慮の浅いリーダーと、権益を求め続ける人々との醜悪な連帯が、人々の苦しみを倍化する結果を招いている悲惨な社会が、現代日本の姿である。

今、そして今後、本質を見失わない歴史認識を持ち、経世済民を行動で示すリーダーが待ち望まれている。

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