プロローグ「不正社会の象徴たる八百長裁判」

八百長とは

〔八百屋の長兵衛(通称八百長)という人が相撲の年寄某とよく碁を打ち、適当に勝ったり負けたりするように手かげんをしたことから出た語という〕勝負事で、真剣に争っているように見せながら、前もって示し合わせたとおりに勝負をつけること。なれあい。いんちき。(大辞林から)

始めに

現代日本社会は不正社会である。
今や、誰もこれを否定することはできないだろう。
森友加計問題、補助金詐欺、不正入試、スポーツコーチによるパワハラ、不正判定、障害者雇用水増し、文書改竄・隠蔽、製品データ偽装、…、枚挙に暇がない。
実に受け入れ難く、情けない限りなのだが、やはりどうやっても不正社会を否定する理由が見つからない。
そう思わざるを得ない決定的根拠がここにある。

裁判の形骸化である。
私は、偶然にも、この1年で多くの裁判に関わる経験をした。
そして、残念ながら、裁判に対する信頼は地に落ちた。
いくら何でもここまで酷いとは夢にも思わなかった。
しかし、これはまぎれもない現実である。

不当判決が少なくない事実は以前から知っていた。
しかし、今までの認識は、不当判決というイレギュラーな判決が存在するというものだった。
現実はそうではなかった。
不当判決は常態化しており、それだけではなく、始めから結果が決まっている”八百長裁判”すら珍しくない。
いや恐らく、確実に一定割合”八百長裁判”が存在すると推測できる!

思い起こしても、美濃加茂市長有罪判決、原発再稼働判決、諫早湾水門閉鎖判決など、これらは全て、事実はどうでもよく、始めから結果が決まっている”八百長裁判”であると言える。
また、これらに共通するのは、国及び権力に都合のよい判決である点だ。
言い換えれば、判決を決めているのは裁判官ではなく、権力である。
裁判官は、権力の言うがままに、自分の身を案じてせっせと不当判決を書いている下僕に過ぎない。
法の番人ではなく、実態は、権力の番犬である。

さて、権力の番犬に成り下がった裁判官達は、最早、良心が麻痺して善悪の判断すらできなくなり、判決文は、予め決まった結果(判決)をどうやってそれらしく書くのか、というレベルの作文に過ぎないので、その質の低下は目を覆うばかりである。

それはそうだろう。
「前もって示し合わせたとおりに勝負をつけること。なれあい。いんちき。(大辞林)」なのだから、大義、正義の欠片もない、格調が極めて低い、悲惨な内容に行き着くのは必然である。
どんなテクニックを用いようと、インチキはインチキだ。

平成30年7月20日、辰工務店リマーク裁判の一審判決が出た。
次回から、私は、裁判と判決文を分析することによって、この裁判が”八百長裁判”であることを証明していく。

なぜ分析を公表するのか?せざるを得ないのか?その理由は、わたしがこの判決に不満があるからではなく、”八百長裁判”が現代不正社会の象徴だからである。
不満は、控訴判決によって解消すればよいが、、”八百長裁判”という現代社会の病は、国民の不幸、公共の福祉の阻害という災いをもたらす。
だから、これを国民のために根絶させる必要がある。

とんでもない社会である。
国民を救うべき裁判官が、裁判制度が、不正義を実現し、国民を苦しめ、不正社会の元凶と相成っている。
極めて深刻な、悲劇的かつ絶望的事態である。

腹が立つというより、恐ろしい、情けない限りである。
結論的に言うなら、こうした情況の原因は、私が15年以上前から危惧してきた日本人の”モラルの崩壊”、自分さえよければよいというエゴ、人の痛みが分からない幼児性である。
私がかねてから予想していた情況が、いよいよ80%以上現実のものとなった。
日本人は、これでお仕舞いと思わないほうがよい。
本格的な災いはこれから本格化する。
裁判官や公務員が信じられない破廉恥事件を起こしたり、テロの標的になったり、極めて残忍な事件が起こるのは時間の問題だ。

まさにそうした残忍な事件の前兆が”八百長裁判”だ。
日本人は、どんでもないしっぺ返しを喰うことだろう。
喰うと言えば、本カテゴリーのイメージ画像だが、”八百長裁判”の味とは、こんな味である。
決して味見は勧めない。

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