第12話「邪悪な判決か?それともフェアな判決か?」

7月10日判決予定日の朝8:30、裁判所から電話があり、判決は7月20日に延期されたと告知された。
あり得ない。
判決日の7月10日は、5月7日時点で決定されていたことである。
なぜ今になって、しかも、当日朝、変更されなければならないのか?

私の周囲の人間は、皆「おかしい」と言っている。
皆、早川裁判官差別パワハラ尋問事件を知っているので、この「辰工務店リマーク裁判」自体が、疑わしい、不公平な裁判ではないかと言っている。

当事者の私自身はもちろんだ。
尋問で、100回以上の出鱈目供述を聞かされ、裁判官に、40回を超える差別パワハラ行為を受け、疑わしいと思わない人間などいないだろう。

最初の判決予定は中止され、裁判官は早川伶奈裁判官から岸田二郎裁判官に換わった。
仕切り直しの口頭弁論が行われ、辰工務店は、私が求めた質問への回答、釈明、反論を全て拒否もしくは放棄した。
要するに、自分から提訴していながら、事実解明と対抗言論を避けたのだ。

この結論としての判決。
私は、判決内容が、今の日本の裁判の現状、裁判制度の存在価値、裁判を左右している力の全てを表現すると考えている。
様々な事件(思いつくだけでも、新幹線無差別殺人、財務次官セクハラ、森友加計問題、文部科学省局長収賄、日大アメフト悪質タックル、児童虐待、などなど)は、社会を写し出す鏡である。
そこに共通するのは、人間のエゴと邪悪な心だ。
事件の全ての理由は、人間のエゴと邪悪な心に行き着く。

私は、この裁判で、人間のエゴと邪悪な心を目の当りにした。
だから、判決が人間のエゴと邪悪な心を反映したものになるのではないかと心配している。
もちろん、そうなった場合は黙っているつもりなどない。
外部の力も借りて、真相を究明し、不正を糾弾するつもりである。

これは、国民、さらには国自体を守る意味がある。
邪悪な判決とは、人権、平等、自由を侵害し、国民が、安心して人生を送れない、社会秩序と平和を破壊する危険なもののことである。
なぜなら、我々国民が、個人的に、裁判以外のものに、問題の解決や正義の実現を託すことはできないからである。
邪悪な判決は、即、国民の不幸、差別社会、希望のない未来を意味する。
容認できる筈がない。

エゴと邪悪な心は、隠すことはできない。
必ず、その姿を現す。
エゴと邪悪な心を持つ人には共通点がある。
ウソをつく。
責任を認めない。
お金や美味しいもの好きだ。
人の痛みがわからない。
だから、人を傷つけても無神経である。
良心がないから、反省はしない。
言葉は駆使する。
「信頼」とか「誠実」とか「尊重」などを並べる。
しかし、行動は伴わない。
というより、真逆だ。
人に犠牲を押し付けて、自分は安全な所に逃げ込む。
何かあっても、人の所為にする。
自分の利益は大事にするが、大義は大事にしない。
道理とは無縁だ。

今、日本では、そういうリーダー、「~長」が実に多い。
もし裁判官もそうだったら……

6月8日、私は、岸田裁判官に「意見書」を提出している。
その最後に、次のよう記した。

健全な社会、人が幸せになれる社会とは、真実と向き合い、未来に向って前向きな気持ちになれる社会である。
本来裁判制度の目的に、社会全体の最大幸福を図るという価値観はないと言われればそれまでだが、もしそうなら、現状の裁判官は、一般国家公務員並みのステータスにして、社会全体の最大幸福を図る新たな裁判制度を別途再構築すべきだろう。
そうでないと、国民が払う犠牲が大き過ぎる。
ドタバタ田舎芝居を演じさせられてきたが、裁判官への最後のお願いとして、私のみならず、本訴原告らにも、真実と普遍的善に向き合わせつつ、本件の合理的帰結とは何なのかを明解に示して欲しい。

付言するに、そもそも、フェアな判決が出るかどうかを心配しなければいけない日本の裁判事情自体がいまいましく、情けない。
簡単に言えば、当たり前のことができない、しない、役人が多過ぎるのだ。
それはなぜか?
本来の仕事、ルール、使命を忘れて、自分達の都合、権力者の都合を優先するからである。
今、日本国中、大義も志もない、そんな低俗な役人だらけになっている。
高級官僚、裁判官にして、そんな調子だ。

憂国という言葉があるが、今まさに、それが必要な時代となっている。
偏狭な国粋主義のことではない。
このまま、卑しい欲に支配された大義も志もないリーダーにこの国を任せておくと、国全体が退廃し、そのつけは国民が全てかぶることになる。
そうならないためには、我々国民自身が、危機意識をもって、対峙しなければならない。

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